長男の授業参観に行った

10才の長男のクラスに、詩か物語を作る時間があって、それを朗読する発表会があった。息子は小説を書いたらしくて、ぜひ見に(聴きに)来てとのことだった。ただ創作を授業に組み込むだけじゃなくて、発表までさせるのはなかなか良い先生じゃないかと、感心しつつ、息子の発表を楽しみに学校に向かった。

余裕をもって会社を早退し、時間よりも早く到着した僕は、子供たちが読む予定になっている原稿を自由に読むことができた。原稿は、これもまた授業の一環として、ワープロソフトでタイプされていた。パラパラ眺めていて、中でも目を引いたのは「ジェイソン VS いかれ帽子屋」というシットコムっぽいコメディ、日本でいうところのショートコントだった。

映画の撮影の一シーンという設定で、まず監督がシーンの説明をする、すると、帽子屋(アリスに出てきたマッドハッターのこと)がひたすらボケ倒して、ジェイソンがSwearword(汚い言葉)でツッコミまくるという内容。悪い言葉は全部"####"で伏せてあるんだけど、これが授業の一環として書かれているっていうギリギリ感がなんとも言えないおかしみを醸し出している。また、単にバッドワードを伏せ字にして羅列してるだけじゃなくて、テンポよくぽんぽんとボケ、ツッコミ、ボケ、ツッコミが繰り返されて、独特のグルーヴ感。

感銘を受けると共に、会話の半分が"####"で伏せられたこの原稿を前に、この子供の家庭環境とか大丈夫かなー、ていうかこれを授業参観で読ませるってこの先生ヤバいんじゃねーかなー、担任変えてもらったほうがいいかもなー、と一転して不安でいっぱいに。

とはいえ、面白いことには変わりない。興味深く読み進めていると、ジェイソンの台詞「イカれてんのかこの####野郎!」をきっかけに、「ああムカつく!そうさ!俺はイカれ帽子屋さ!イカれまくってるんだよ、この####野郎!」と、帽子屋がそれまでのボケキャラからいきなりのブチ切れを見せるくだりで、思わず笑ってしまった。リズムの崩しとキャラの変化の意外性がうまく相まった台詞がズドンとぶつかってくる。そこからは、キレキレのツッコミに豹変した帽子屋が豊富な語彙でジェイソンを罵倒しまくって、最後は監督が「カット!」と叫んで唐突に終了。シュールな中にも何かを納得させられる絶妙な後味のエンディング。

その他の作品もいくつか見たが、まあ、年相応のかわいらしい作品ばかりで、そりゃそうだよなと、逆に安心したところで、時間となり、朗読会が始まった。

「冬が音楽会を始めました。風がピューピュー演奏します」とか、ハリーでポッターなストーリーとかが次々と発表されていった。まあ、どうにも「昨日見た夢がちょうすごくてさー」って感じで、どんどん退屈する子供たち。無理もない。そんな最悪の雰囲気の中、ついに息子の出番。先生が息子の名前をコールすると、子供たちが拍手で迎える。どうやら子供たちは息子が何を朗読するか知っているらしい。ぐだぐだだった空気が一変して、期待で満ちている。

そして、ああ、必然といおうか、何となく予期していたといおうか、息子が「演じ」はじめたのは、あのショートコントだった。sensoredな部分を自分でピーピー言う度に、子供たちは大爆笑。まあ、そうだよな。この世代には、最強の飛び道具だよな。勢いそのままに、帽子屋が怒り狂うシーンにさしかかる。さあ、ここだぞ、息子よ。

"Are you mad, #######?"

"...#### ###! Yes, I'm mad! I'm supposed be mad! I'M ####### MAD, ###### ######!"

どかーん!きたきた、笑いの渦。ひっくり返って笑ってる子供もいる。難しい顔をしていた大人たちもついに笑い始めた。我がことのように、ついつい拳を握る俺。ここからは一気呵成。前半のジェイソンのバッドワード連呼を伏線にして、「お前がどんだけ悪い####野郎か教えてやる!お前カメラ回ってから15回も####って言ったんだぞ!####って!####って!####って!####って!####って!」とこれでもかとビープ音を連発するシーンでは、笑いすぎてアホみたいになってる子供すらいた。

"... and CUT!!"

朗読が終わると、拍手と口笛と足踏みと。顔を上気させて壇上を去る息子の得意げなこと。ちなみに、20人の生徒のうち、コメディを書いたのは息子だけで、親から笑いが起きたのも息子だけ。拍手は誰よりも多くもらっていたことを付け加えておく。

僕は我がことのように誇らしかった。

たしかに教育の場には相応しくない内容だったかもしれない。また、子供たちに大受けだったとはいえ、息子のあの朗読が、お堅いPTAの親たちからどんな評価を受けるかは明らかだ。ひょっとしたら、何人かの親たちは陰でひそひそ噂するかもしれない。でも、かまうものか。

エンターテインメント産業の端っこで口に糊する俺は、他人の心を動かすことがどれだけ難しいか知っている。あの退屈な朗読会で、たった一人、クラス中を、親まで巻き込んで沸かせたのだ。こんな素晴らしいことが他にあろうか。僕は、彼が5才でアメリカに引っ越して、たった2年前まで言葉が通じずにクラスでひとりぼっちだったことを知っている。教師に聞いたから。心配でこっそり覗きに行ったから。それが、今やどうだ。息子は、苦手だった英語で、みんなを笑わせている。どれだけ自信になるだろうか。将来、この日のことを思い出して、どれだけ励まされるだろうか。なんという、大きな財産。

終了後、俺は、先生に厚くお礼を言った。俺が教師だったら果たして息子のあの作品の朗読を許すだろうか。他州と比べて教育への予算が乏しいカリフォルニアでは、親の教師を見る目が非常に厳しい。アートと音楽に力を入れる学校ではあるが、テストのスコアを上げることも、等しく重要であるとされる。あまりに低いとリコールされかねない。シビアな評価が下される授業参観に、息子の作文を「アリ」としたのは、相当な英断、いや蛮行とさえ言えるかもしれない。

「先生、ありがとうございました。あの内容にもかかわらず、OKを出した頂いて。誰が何と言おうと、先生の判断を支持します。息子にとって、今日という日は輝かしい思い出となるでしょう。」

「やー、僕も悩みましたよ。"shut up"を伏せ字にするかどうか。結局伏せることにしました。まだ10才ですしね。」

え、そこ?

いや、先生ありがとう。そして、よくやった息子よ!父は嬉しい。本当に、本当に嬉しい。