偶然と初恋と

人生は数奇なものだと人は言う。今のところ僕の人生でベストオブ数奇は、妻との出会いで間違いないだろう。

始まりはたぶん、両親が購入する家を僕が選ぶところからだと思う。大家の都合でそれまで住んでいた借家を出て行くことになったのだ。当時高校3年生だった僕は、親に言われて家を探すことになった。いくら大学受験がおわって、ひまでぶらぶらしているとはいえ、子供に数千万の買い物のリサーチをさせるのは、今だに理解に苦しむ。とにかく、僕は家を探していた。とりあえず、近くの不動産屋にいって、いろいろ物件を見て回った。市内に良さそうな家があって、親に伝えた。彼らも見に行って気に入ったらしい。購入が決まって夏に引っ越すことになった。

4月になり、大学に入学した。浪人をしてまで入ったその大学で、僕は腐っていた。昼過ぎに家を出て、駅前のゲーセンでバーチャストライカーばかりやっていた。夏休みが、引っ越しが終わったらちゃんと授業にでる、そう誓ったはずが、新学期になっても、心も体も動かなかった。特に理由はなかった。いや、あった。入学早々、肺を患って2週間ほど入院した。学校に戻ってみると、みんなもう親しくなっていた。そして学舎に集う選良たちについていけなかった。あのサークルは政界にパイプが太い、こっちのサークルはマスコミ志望ならマスト、そんな会話は聞きたくもなかった。サークルライフからもコンパからも縁遠い、プラモと映画とゲーセンで構成された、名ばかりの大学生活を過ごしていた。朝から晩まで一言も声を発しない日も珍しくなかった。たまの独り言に、あれ久しぶりに自分の声聞いたなーって思うほどだった。

10月の半ば、このままじゃ自分がダメになるという焦燥感に突き動かされ、「アルバイトをしよう!」と突然思いついた。アルバイトなんてそれまでしたことがなかったけど、それをすれば何かが変わる気がしたんだと思う。

思いついた日に、まだ慣れない駅前の本屋でバイト募集の張り紙をみつけた。僕は、そのまま店に入り、履歴書とボールペンを買った。その足で、駅ビルにあるスピード写真で自分を撮影して、向かいのマクドナルドで記入した。1時間後に本屋に戻ってきて、初めてつくった自分の履歴書を店長に渡した。面接は5分後だった。本が好きで、本に囲まれてると幸せだとか、がんばって語った気がする。つぎの日、電話がかかってきて、あっさりと採用が決まった。

初めて店員としてレジに立つ日、そこにその女性はいた。身長が低い部類に入る僕より、はるかに低い背丈。セミロングの黒髪で、童顔で目がぱっちりとしていて、よく知らないがアイドルの誰かに似てた気がする。年は同じぐらいだろうか、服装はシンプルこの上ない。赤と白の細いボーターのTシャツに、ビンテージとおぼしきジーンズ、足下は黒のオールスター。今でも覚えてる、めちゃんこかわいかった。

店長に店内を案内されながらも、その女性が気になってしかたがなかった。客に礼を言うときに笑う様が、これまで見たどんな笑顔よりも、愛らしく、まぶしく、フロアが明るくなるほどだった。

願いが通じたのか、僕は彼女と必ず一緒にバイトに入って、基本的なレジの業務を教わることになった。それなりに大きい駅前の本屋で、それなりに人も多い。無駄話をするチャンスはほとんどなかったけど、それでも僕はモテようと一生懸命しゃべった。必死だった。話すようになってすぐに、彼女はもうバイトを辞めるところだと知った。引き継ぎのために僕と同じシフトに入っているのだった。

でも、そんなことは関係なかった。世の中すべてに対して斜に構えた自分は、気づいたらどこかへ行ってた。かけひきとか、打算とか、そんな余裕は一切なかった。一日中彼女のことを考えて、一日中何を話そうか思いを巡らせていた。一月前の自分が見たら笑うどころか、同じ人間だと信じられないような変化だった。どこまでいっても自分しかなかった僕の頭の中に、いきなり彼女が入ってきて、僕の価値観を一新した。世の中すべてが変わって見えた。彼女ならどう思う、彼女ならなんて言う、彼女なら、彼女なら。

その女性は、1年半後に妻になった。それから10年、今、僕たちには4人の子供がいて、2匹の猫を飼っている。


運命って言葉は、なんかうさんくさい。「もしXXがXXしてなかったら、今の私はありません、運命です!」とか言われると、それ、ただの偶然じゃん、って警戒してしまう。でも、妻との出会いを思い出すと、どうしてもそう考えてしまう。あれは運命だったなー、と。僕が何をどう努力しようと、他の誰が助けてくれようと、あの一連の流れをもう一度発生させることは不可能だと思う。

たまたま両親が僕に家を探させなかったら、たまたま僕があの駅前の家を見つけなかったら、たまたま入学直後に入院してなかったら、たまたま大学で腐ってなかったら(これは必然だった気もするが)、たまたまあの張り紙を見つけなかったら、たまたま妻が都合でそれまでの仕事を辞めてあのバイトをしていなかったら、たまたま妻がそのバイトを辞めるところで引き継ぎのために僕と同じシフトに入らなかったら……、彼女と結婚することはなかったかもしれない。それどころか、出会うことことすら叶わなかったかもしれない

これをただの偶然と呼ぶか、運命と呼ぶか、それは人それぞれだと思う。でも僕は、人生を共にするパートナーになってほしいと思える他人、つまり今の妻と多数の偶然の積み重ねの結果出会うことができたことに対して、「すげー偶然!」という言葉で片付けることができない。どうしても、運命という言葉がぴったりくるし、出会えたことに特別な意味を感じてしまう。

結婚してから良いことも悪いこともあったし、これからもそうだろう。想像を超える不幸が起きるかもしれないし、究極的には必ず別れが来る。でも、あの時の人生のダイナミズムを思うと、もう人事を尽くして運命に身を任せるしかないんだな、と思う。そしてその運命が最後まで妻とあることを、切に願う。