アメリカで車を買った話

2年ほど前、新人研修からアメリカ駐在まで世話になった会社を辞めて、同じくアメリカに所在するゲーム会社に現地採用で入社した。これは同時に、異国でのややこしい税金処理、乗用車、はては住居まで、至れり尽くせりの駐在員生活に決別し、すべて自己責任で生活することの選択でもあった。そして、その第一歩が、返却した社用車の代わりになる、通勤用の車の購入だった。

アメリカで初めて買う車はボロボロのアメ車でなければならぬ。俺はそう決めていた。車は分相応でなければならぬ、と頑なに考えていた。贅沢な話だが、駐在員時代には、どこか分不相応な処遇への違和感があった。社用車を与えられ、治安の良い地域に、広い住まいを与えられていた。自分の実力と無関係に与えられた、何かふわふわした暮らしだった。

まずは車から、自分の覚悟を表したい。そう思っていた。

で、思うだけで、仕事を辞めた後処理の忙しさにかまけて何もせぬまま、新しい会社の出社日があと3日に迫っていた。車がなくては、公共の交通機関がまばらなカリフォルニアのベイエリアでは、覚悟もクソも出社が不可能であった。でも慌てない。世界最大規模の売ります買います掲示板"Craigslist"がある。ここなら個人売買で即日車を引き取ることも可能なのだ。

これも俺がアメリカ生活に慣れたということよクククと検索。結果のうち、セガサターンに名前が似てるから、という安直な理由でクリックした車が意外に良さそうなことがわかった。のちのIDA-10号となる4ドアセダン、99年型Saturn SL1である。

曰く、たったの120Kマイルしか走っていない!

曰く、無事故車!いろいろ交換済みで新車同様の走り!

曰く、ガロンで36マイルも走って*1通勤に最適!

なによりも$1800という安さが目を引いた。この値段でフィルタリングすればわかるが、99年より新しい車はほとんど見つからない。見つかっても、事故歴が多かったり、あちこち修理が必要だったり、それどころか「走りません!」って書いてあったりする。いや売るなよ、それ。

ともあれ、もはや運命めいたものさえ感じた俺は、売ってください!と力強くメールを送信した。

返事はすぐ来た。

「今から来れる?」

時計を見る。夜中の2時だ。俺は非常識な時間指定を怪しみつつも、早く車を手に入れないといけない焦りと、破格の条件に目がくらみ、翌日の夕方に会う約束を取り付けた。

つぎの日、降りしきる雨の中、住所を頼りに近くまでくると、天候など気にしない大人たちが道ばたで佇み、廃車寸前のアメ車がならぶ一角に入った。あー、違うといーなー、ここ。という期待もむなしく、男の部屋は、スラムのど真ん中にあった。普通だったらごめんやっぱりなしと立ち去ったと思う。しかし、出社が数十時間後に迫っている。見るだけでも、と思って男を呼び出した。男もまた、傘もささずに現れた。がりがりに痩せ、まばらな長髪の奥に目だけがギョロギョロと大きい。ロスから来たカナダ人で、これから新しいビジネスを始めるところだと自己紹介された。笑うと何本か歯がなかった。

カマンデュード、車はこっちだぜェと駐車場へ。ロケーションと男の風貌から、スト2のボーナス面で開始と同時に竜巻旋風脚を当てたみたいな車を覚悟していたが、意外にも外装に目立った傷はなく、エンジン音もきれいだった。

男はさっと運転席のドアを開けた上にエンジンまでかけてくれた。車内でまず目に入るのが、むしったような、焼いたような、スポンジが露出した天井。薄暗い天候で目立たなかったが、窓に張られたスモークが結構濃い。ヤンキーの車みたいだ。車内装備はいたってミニマムで、エアコンはあるが、パワーウインドウはもちろんのこと、ラジオすらない。

でもまあいいじゃないかと思った。内装が汚いくらいなんてことはない。フルスモークがヤン車みたいだけどこいつヤンキーだし。いろいろ装備が付いてるよりは潔く何もない方が好みだ。stickとか5 speedとか言われるマニュアル車なのも気に入った。近年ずっとオートマ車だったけど、マニュアル車の運転はけっこう楽しい。近所を一回り。特に問題はない。多少セカンドギアが滑るが、まあ大丈夫。

「どう?」 男が不安そうに訪ねる。

「買うよ、これ。」 男の顔がぱっと輝く。

「サンクス、デュード!現金あるよな?」

男が舌なめずりをせんばかりに20ドル札の束を数えはじめると、どこから来たのか、ずぶ濡れの子供たちが車の周りにワッと集まってきて1ドルくれ!1ドルくれ!の大合唱。男は一瞥もくれずに数え終えると、じゃあ、と金を懐にしまい、子供たちを蹴散らしながら足早に立ち去った。きっと新しいビジネスが忙しいのだろう。俺もこれ以上このマッドシティにいる理由もないのでエンジンをかけようとキーを回した。新しい生活の第一歩。かからない。やりなおし。沈黙。

おいおいおい。男を呼び止めないと。でもドアを開けると子供たちが車内に雪崩れ込んできそうで怖い。窓を開けるためにレバーを回そうとしたら、力を入れた瞬間にツマミが外れて転がり落ちた。窓が開かない。いつの間にか日が暮れ、車内は暗い。手探りで見つからない。

らちがあかない。天井の車内灯をつけようとスイッチに手をかける。ONにしようと力を入れたら、今度はスイッチごとライトユニットが外れた。幸い、コードは切れず、ライトは天井からぶらぶらと揺れていた。

妖しくゆらめく灯りの中、運転席の下をのぞき込むと発見しました、注射器を!とたんに男の風貌がフラッシュバック。ガリガリ、長髪、ギョロ目に歯抜け。うわー、まんまや!とりあえず刺さらなくてよかった。危ないがそこらに置いておくわけにもいかん、とりあえずダッシュボートに……ってなんか違法な匂いのする葉っぱの屑があるんですけど!いやいやいや葉っぱはきっとただのタバコで注射器は糖尿病か何かのための……

と、ここで窓をコンコンと叩かれた。ドッキー!顔を上げると「パルプフィクション」に出てきたマフィアのボスみたいな黒人が覗き込んでる。願わくばこのまま走り去りたいが、「クルードバスター」よろしく車ごとリフトされそうな予感。つかエンジンかからねえし。拾ったツマミをはめて、キコキコと窓を開ける。

「ヨーブロー、"嘘つきジョー"から車買ったのかよ」

あ、やっぱ?

「あの糞ジャンキーうまいことやりやがったな」

あ、やっぱ?

「エンジンかかんねえんだろ?」

あ、やっぱ?

クラッチを死ぬほど踏み込みながらスタートしてみ?」

かかった。ありがとう、ブロー。これで俺も新しい生活を始められるよ!

翌日、無事に出社し、最初の昼休み。新しい同僚とランチにでかけることに。皆独身で2シーターが多いので、俺の車をだすことになった。さあ、出番だぜ相棒!

あれ?みんな相棒みて何かひるんでない?いや、大丈夫だってけっこう走るよコレ、とか言いながらドアを閉めると、衝撃で天井のライトが落ちた。後ろの席のやつが窓を開けようとしたら「ホワッツ?」とか言って手に何か持ってる。窓レバーのツマミだ。後ろもかよ。今クーラーかけるからって……、ダイヤルが冷房側に回らない。ガチャガチャやってたらエアコンのパネルが外れてバネが出た。

そんなこんなで出発。へー、X社から来たんだー、クールじゃーんとか世間話。高速に入ったところで、まぶしいからサンバイザーを下げたら注射器がまろびでた。

こ こ も か 。

「ヘイ、これ巻いていい?」って聞かれて振り向いたら乾燥した植物が。

そ こ も か 。

というわけで出社早々、"ナイスカー"IDA-10の名を頂いた。その後しばらく、うわさを聞いた同僚たちが車見たさにランチに誘ってくれ、すっかり打ち解けることができましたとさ、という良い話です。その後の顛末についてはまたいずれ!

*1:ちなみに我が家の「赤い車(id:IDA-10:20080812:1218537672)」こと2008年型のTOYOTAのミニバンはガロンで18マイルくらい