”WALL-E”を観て思う、ビデオゲームの新たな可能性

トイストーリーなどで有名なアニメーション制作スタジオPIXARの最新作"WALL-E"*1を観た。そして、CGアニメーション業界のトップランナーであるPIXARの挑戦にため息がでるばかりだった。

細かいあらすじ、設定など省くが、この映画の2軸あるストーリーのうち、片方は恋愛である。なのに、主人公は2体はロボットである。ショートサーキットに出てきたジョニー5の胴体が四角になったようなWALL-Eと、昔のiMacクリオネを混ぜたようなEVA(下の写真参照)。双方、知能・感情は持ち合わせているものの、基本的に台詞はお互いの名前のみ。

ここですでに、打ちのめされた。感情の機微の表現は、人間であっても難しいところ。それを台詞もしゃべれない、涙も流せない、表情も変えられないはずのロボット2体にさせるって、どんな挑戦だよ、と。しかも、それが見事に成功している。悲しいシーンではみな鼻をすすり、スタッフロールと同時に万雷の拍手(インディージョーンズより多かった)。


さて、ここからが本題、これらをゲームの世界にあてはめると、あら不思議。次世代機での問題や、ゲームをよく知らない人が奏でるゲーム批判に対しての答えがありそうだったりなさそうだったりする。

繰り返すが、主人公のキャラクター2体はロボットである。片方は足がなくキャタピラ、片方は足がないどころか飛んでいる。これは、アニメーションの作業そのものの手間が、人間(もしくは2足4足歩行の動物)と比べると、格段に減るということを意味する。

  • アニメーションとキャラクターが前に進むスピードが違うために起きるいわゆる「滑り」がごまかしやすい。

2足歩行の場合、アニメーションのスピードはある程度プログラムで制御できるが、あまりずれると不自然に見える。走ってるスピードなのに、背筋を伸ばして歩いている姿勢だとおかしい、とかそういう。結局は、アニメーターが移動スピードにあわせた姿勢をつくらないといけない。

それに比べて、WALL-Eのキャタピラはプログラマだけで調整可能。EVAは飛んでるのでパーツのそのもののアニメーションがいらない(前進中に前傾になったりだとか、そういうのはもちろん必要だけど)。

  • 足のためのIKがいらない(楽になる)。

WALL-Eの場合、自然な姿勢をつくるための、IKと呼ばれる一種の物理演算が人間型に比べて格段に楽。8頭身の人間の場合、足の裏の接地面の角度と高さから、足首、ひざ、足の付け根の角度のつながり方を割り出さなければいけない。

これを入れたところで、見た目を良くするのが主な目的だし、あんまりユーザーに気づかれないところでもある。たとえば、階段などにキャラクターを立たせてレバーをニュートラルにしたとき、片足が浮いてしまうのが防げたりする。

けど、ほら、べつにいいじゃん、なくても。まあ、現世代機のゲームで人間型キャラクターがこれをしないと若干恥ずかしいとか、その程度。

しかも、100%プログラマの制御ではどうしても不自然になるから、適切なアニメーションをブレンドすることになる。待機、登り歩き/走り、下り歩き/走りをそれぞれ左右。あーうざい。でも、この心配いらなくなる。これを実装したくないがために、地面の傾斜は5度以内にしてくださいとか言わなくてすむ。

キャタピラの仕様(映画のWALL-Eのキャタピラはけっこうフレキシブルに接地してる)によっては必要だけど、それでも、人間が自然に見えるのに比べれば楽なはず。EVAは飛んでるのでこれについてはまったく必要なし。

  • 進行方向を変える入力があったときに「つなぎ」のアニメーションが少なくてすむ。

具体的に言うと、ニュートラルから進行方向に対して右にレバーが倒れた時、視線を動かしたあとに首がまわり腰がまわって右足が出るっていうやつ。

足がある場合、細かく言うと左回りと右回りそれぞれに45,90,180度のターンのアニメーションがあって、さらに歩きからのターン、走りからのターンの合計18種類が欲しい。これを、単にモデルをY軸で回転させるだけだったり、パカっと表示をフリップさせるだけだと、PS2っぽいと言われる。

  • EVAのパーツが少ない。

人型のモデルが飛ぶ場合は、腰や手足の動きを自然に見せるのはかなり大変だが、EVAは頭と胴体と腕しかない。しかも、顔と、手のパーツが浮いている(体とつながっていない)から、テクスチャーを適切にストレッチさせたりなど、そのあたりの作業もぐんと減る。

細かく言えばきりがないが、この辺にしておく。で、アニメーション作業が減るということがゲーム制作において何を意味するかというと、無尽蔵にあがる開発コストが削減できるということにつながる。もちろん、少ないパーツで行動を表現するためには、よりセンスが求められることになるので、一概にアニメーターのコストがなくなるとは言えない。それどころか、センスがない場合、完成しない恐れがある。手を胸に当てて、フェイシャルアニメーションで顔をゆがめれば、ほら苦しいでしょみたいなつくりかたではまったく表現が成立しない。

とにかく、商業アニメで、アニメーションをめちゃめちゃ節約していても(いや、PIXARにそんなせこい考えはないと思うけど)大ヒットしている現実から、同じ野望をゲームに抱いてもいいはず。がんばろう。


次に、"WALL-E"では主人公2人は、ほぼ台詞なしである。そしてロボットである。WALL-Eは目に相当するカメラが、EVAの顔はディスプレイが表情を表すが、それは、おもちゃのそれ以上のものではない。しかし、しっかりとそこに台詞と感情を感じてしまう。想像してしまう。

映画を観ながら思ったのは、あー、そういえば、世間様から「近頃のゲームはリアルになりすぎて、昔のように想像する余地がない」って言われていたなーと思い出した。でも、ほらここに、バリバリにリアルなCGをつかっても、観る人に想像させる表現ってあるじゃんねーと。8bit時代はドット画にキャラクターの表情や細かいしぐさを想像してたのかもしれないけど、今だったらリアルな表現から、感情や情緒を想像してもらえるよなーと。しかも、現代のCGの表現力だったら、人間じゃなくて、ロボットにすらその役をさせられるじゃんよーと。気もち悪い語り口なのは、ここにはそれほど自信がないからなんだけど。

なんにしても、テクノロジーの進化のおかげで産まれた新しい表現を踏みにじるような、「リアルなグラフィックがプレイヤーから想像する楽しみを奪った」的な言説が嫌いだ。想像したいなら、最新の技術で想像を喚起するようなものを作ればいいじゃん。ていうか、作られてるじゃん、みんな台詞もないのに映画館でだだ泣きじゃん。


結論としては、どんな問題課題があろうとも、態度しだいで、まだまだ新しいことできるな、って当たり前のことを再確認させられた。問題があったら解決するべく挑戦しないと!そんな"WALL-E"だった。リアルなグラフィックをゲームにのっけなきゃいけないせいでゲームが作りにくくてしょうがないという愚痴(『ゲームグラフィック予言の書』http://d.hatena.ne.jp/IDA-10/20070416/1176711896)言ってないで、ちゃんとがんばらないと。

■余談

ゲーム版の"WALL-E"ってのがあるんですが、この出来がまあ、なんというか、ゲーム作るのって難しいですねっていう感じでした。


おまけ

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映画館でもらったステッカーと、腕時計。うれしー。

*1:日本語タイトルは『WALL・E/ウォーリー