ゲーム開発における日米の違い

アメリカはカリフォルニア、ベイエリアのゲーム会社で働くようになってから丸3年がすぎた。ちょっと前には転職もして、別のアメリカ企業を経験中。日本のゲーム会社で5年くらい、アメリカで3年くらいゲームを作ってみて、ようやく言語にできるくらいまとまってきたので、ゲームの作られ方の大きな違いをメモしておこうと思う。もちろん、自分は、たくさんあるゲーム会社のほんの一部しか知らないので、まったくもって一般論を語る気はない。あくまでも自分の見知った範囲での考察。


■「思いついたらとりあえずやってみる」が美徳

俺が思うに、アメリカ発のゲームと日本の伝統的なゲームの違いの源泉はここにある。彼らはちょっとアイデアを思いつくと、すぐ実行してみる。俺からすると取るに足らないネタでも、"That should be cool!"を連発してとりあえずやってみる。どうやら、それが美徳らしい。うだうだ仕様を考えて、プログラマとアーティストに根回しして、段取りをちゃんとするようなゲームデザイナは忌むべきタマ無し野郎とみる節があり、理屈をこねてるヒマがあるなら、とっとと実装しろ、と考えてる人が多数に見える。この「すぐやろう!今やろう!俺は絶対うまくいく!」って性質は、一緒に働いてみるまで想像もつかなかった。


■「即実行」を実現できるツール、エディターの充実

自分の知ってるいくつかのスタジオは、デザイナが一人でゲームを組み立てられるようなスクリプト言語、ツールやエディタが充実していて、思いついたことは、そのままゲーム内に反映できる場合が多い。しかも1人で。もちろん、それに伴ってそれらの扱いは複雑で習得に時間がかかる。デザイナが何かをゲームに組み込む場合、プログラマのそれと同じ「実装」"implementation"という単語を使う。実装に伴うバグのリスク等は、プログラマのそれと同等に扱われる。


■アイデアを実装するのに仕様書いらず

で、そういった開発環境において、俺にとって一番の恩恵がこれ。明文化、書類化、共同作業のプロセスを経ないでアイデアをゲーム内で実験できるところ。アイデアを1人1人がそれぞれの感覚を実現可能なことで、カオスながらも、なんというか、容易に言語化できない、「なんとなく面白い」「なんかクール」が次々ゲームに投入される。アメリカに来て、自分が日本でゲーム制作中に漠然と感じていたことがはっきりわかった。つまり、アイデアを、ゲーム内のシステムに当てはまるような数式に変換し、仕様書にする段階で自分の初期衝動が矮小化される気がするのだ。ミーティングを重ねて具体的な仕様に落とし込む段になると自分の感じていた「面白ポイント」はさらにスポイルされることが多い(まあ、これは俺の企画としての能力が不足しているだけなのだが)。


■アイデアの化学変化

結果、物理エンジンと相まって、アイデアが化学反応を起こしやすい。例えば、誰かが「敵を投げる」という動作をゲームに入れたとする。また、他の誰かが床から「回転ノコギリ」を生やしたとする(そう、恐るべきことに、デザイナだけでこれらの機能は実装可能なのだ)。それぞれはたいした事ない普通の要素だが、遊んだ誰かが「敵を回転ノコギリに放り込」んでみる。これは素敵なケミストリーだ。ただ投げられるだけじゃなくて、狙えばさらに大ダメージになる。さらに物理エンジンによって、「回転ノコギリの前に集まった敵たちに向かって敵を投げつけ」てみる。投げられた敵はたくさんの敵をなぎ倒し、ジャギャギャーと切り刻まれる。エネミーを誘導することで、いっぺんに倒せる。これもまた素敵なハーモニー。あら不思議、なんかゲームっぽくね?


■クールなら採用

というわけで、日本にいた自分だったら事前にコストを考えて絶対やらないようなアイデアから、予想外のホームランが飛び出す場合がある。そういった場合、みんなでクールクールオーサムオーサム言いながら、そのアイデアをゲームのセールスポイントの一つに仕立て上げてしまったりする。これは、俺からすれば行き当たりばったりとしか言えないような流れだが、渡米後、これがゲーム制作における立派な一過程にすらなっている場面に何度か出くわしている。


■クール観の違い

で、採用の基準になってる「クール」ってなんなのよ、って話。あるアメリカ人デザイナ曰く「ゲームにおいて、すべての人間は殺されるべきだし、すべての建造物は破壊されるべき。それができないゲームはサック」と。俺は内心「わー、このヒト気違いだわー」と思った。だが、その発言を受けて周りのデザイナが「すべてのゲームにもっと流血を!もっと爆発を!」とシュプレヒコールをあげるのを前に、彼らなりの共通認識を受け入れざるを得なかった。というか、北米市場に出回るゲームを見れば、彼らがいかにそれらを求めているか容易に確認できる。たぶん、日本人が「侘び寂び」の感覚を共有しているように、彼らの魂は硝煙と血の臭いでつながっているに違いない。死体のリアルな挙動や、おっさんのリアルな血管やヒゲなど、俺にはどうしてそこまで情熱をかけれるのか、と不思議なことも、彼らにしたら当然追い求めるべきことのようであった。そして、重要なことだが、ユーザーも同じくゲーム会社がそれらを追い求めることに何の疑問も抱いていない。


■現世代機でようやく可能になった開発体制

理想とするゲーム開発の違いが、現世代機になって日本とアメリカのゲームをより違うものにしているような気がする。これまでは、上記のようなツール類を実機上でぶんぶん走らせるのは、処理速度等、諸々の事情で彼らの欲求を十分に満たすものではなかったが、現世代機ハードの演算能力でようやく実用的になってきた感がある。高騰する開発コストに対して必要最小限の実装ですむように最適化されるべきゲーム開発が、今まで以上にフレキシビリティと自由を伴っているのは、あべこべのような気もする。もちろん、あくまで俺が見た範囲なので、これはきっとデベロッパごとにまったく異なるだろうな、とも感じている。ガチガチに仕様を固めてからスタートして最短コースを走るチームもあれば、至高のツールをどっさり用意して「さあ、最高のゲームを作ってくれたまえ!」というチームもあるだろう。


■コスト計算の難しさ

自由度の高い開発の場合、これらをスケジュールをはじめとするコスト計算に落とし込むのは至難の業だ。つか無理。デザイナーとディレクターとプロデューサーがそれぞれ優秀じゃないと、こんな開発の仕方はありえない。このへんは逆に日本以上に合理的ではない阿吽の呼吸でゲームを作ってる気がする。細かい部分に仕様書とか用意しないしね。知りたければエディタでファイル開けって話しで。これもスタジオごとにぜんぜん違うだろうな。


というわけでまったくまとめないまま終わります。