次世代ハイスペック機にあるべきゲームデザインとは

TGSも真っ最中ということで、久しぶりにゲーム語りです。ゲーム制作に興味の無い方はさらっとスルーしてくださいー

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id:miyaokaさんとゲームについていろいろと語っていたところ、個人的に、今、ハイスペック機におけるゲームデザインを考えるにあたって幸せなのは、「ユーザーがどんなゲームルールを楽しむのか」というより、「ユーザーがどんな自由を持てるのか」というところなのかなあと思った。

「リスク」と「リターン」の「かけひき」に代表されるようなゲームルールの妙味とそれを誘発するようなレベルデザインがなされた古典的ゲームは、かつて限られた性能の中で生まれた多くの名作の例を引くまでもなく、ハード性能と関係なく作られてきた。なので、いわゆる古典的なゲームを作りたければ、高いコストをかけてハイスペックな次世代機で制作するまでもなく、どのハードでも開発が可能だと考えられる。

しかし、いわゆる「何でもできる(できそうな)ゲーム」のように、仮想世界に存在感を与えたり、ユーザーの試みにすべて反応したりするには、それ相応のマシンスペックが必要である。そして、ようやく、ユーザーがイメージしてきた「何でもできるゲーム」に、実現できる内容が追いつきつつあるのが、次世代機と呼ばれるハイスペック機だと思うのだ。

で、冒頭の話に戻るが、「自由」なゲーム、いわゆる「何でもできるゲーム」が次世代ハイスペック機において幸せなかたちのひとつということで、そのデザインについて考えてみましょうぞ。

とはいうものの、一見「何でもできる」と「ゲームデザイン」は相反する言葉のように思える。「自由」という言葉の前にゲームデザインの必要性は薄れるのか?いや、そんなことはない。「何でもできるゲーム」のゲームデザインは、いくら次世代機といえども限界がある以上、「ユーザーの『特定』の自由を保障する」形で必要であると僕は思う。

例えば「The Elder Scrolls IV: Oblivion」は、よく言われるように何でもできるRPGである。戦闘→成長のような古典的な意味でのゲーム性は、ユーザーの遊び方しだいでいとも簡単に消滅する。ゲーム制作者の意図どおりにエンディングに進行するようなゲームデザインはされていない*1。しかし、「現実感のある異世界を探索できる自由」を保障する形では、しっかりとデザインが行われているのである。モンスター達の生態であったり、物理演算による物質の挙動であったり、様々な形で、「Oblivion」たる世界を創り上げ、ユーザーの探索に応えるようにデザインされている。

また近年の「GTA」シリーズでは、「犯罪を楽しむ自由」を保障する形でゲームデザインされているといえる。民間人を殺して警察に追われゲームプレイの難度が上がることで、犯罪という行為をよりリアルに体感できるし、各種クエストはプレイヤが犯せる様々な犯罪の可能性を楽しく教えてくれる。

ここで重要なのは、これらのゲームにおける「自由」は、ゲームデザイナーが意図した「自由」であるということだ。「GTA」にはお年寄りをおんぶして横断歩道を渡る自由はないし、「Oblivion」で脳年齢を上げることはできない(いや、できるかもしれないけど)。この「限定された自由」という意味では、今だゲームは制作者の手のひらの上で遊ぶものであるともいえるし、厳密に考えれば、まったくもって自由ではないともいえる。

余談ではあるが、このへんに、ユーザーとしては幻滅してしまうものの、ゲーム制作者の僕としては「ああ、なんか自由なゲームが流行ってるけど、まだデザインできるじゃん」って安心を感じてしまう自己矛盾がある。

というわけで、今だユーザーが楽しむために古典的ゲームデザインが有用であることは疑いようが無い(なんせ人間の本能に根付いている)けれども、ゲームデザインのひとつとして、「ゲームにおいてユーザーの特定の自由を保障する」という切り口から考えてみると、ヴァリヴァリの古典的なゲームとはまた違ったゲームが発想されそうな予感であります。

■次回予告

さーて、来週の「GAME NEVER SLEEPS」は?

凝りもせずにゲーム語り、「夢のない次世代ゲームのトレンド」をお送りします。いたしまーす。

*1:もちろん、独自の成長システムであったり、エネミーとの戦闘であったり、様々なゲームシステムは存在するが、自由に冒険できるというこのゲームの本意からすればサブの要素なのでここでは言及しない。