■俺にとっての「耳すま」
前提として俺は「耳をすませば」をどう少なく見積もっても50回以上は観ている(id:IDA-10:20060416)。なぜかというと、抜群の効用と高揚が得られるからだ。効用は「戻れないあの頃の追体験」による癒しで、高揚は「雫のモラトリアム脱出の決意」が、モノづくりで飯を食っていく覚悟を強烈に呼び覚ましてくれるところにある。雫が物語を書くくだりは、いつ観ても「よーし、俺もがんばる、やってみるよ!」と拳を握ってしまう。
■「時をかけ」は第2の「耳をすま」になりうるか
で、冒頭あたりの「寝ぼけたまま時計をみて、『もうこんな時間!』と覚醒」のシーンからして「耳すませば」との相似性をアピールしてきた「時をかける少女」は、第2の「耳をすま」になりうるか?という題目であるが、一応、結論から言えば、なれるし、ならない。どっち。えーと、7:3でならない。好きだけど。
単純に「戻れないモラトリアムに起きた幸せなエピソードの追体験」という意味においてなら、第2の「耳すま」になりうる。幸せ追体験という軸で好きなアニメを並べた時、小学生時代の「おジャ魔女」、中学時代の「耳すま」、大学時代の「海がきこえる」だったところに、「時かけ」は高校時代を補完したと考えられるかもしれない。観てて幸せ。嬉しい。登場人物たちが愛おしい。きっと何度も観返すだろう。
だが、「時をかける少女」には、「モラトリアム脱出の決意」の高揚が薄かった。でも、それは「時かけ」のテーマの一部になっていた気はした。ただ、希薄だった。いや、正確にはなかったと言ってもいい。なぜだろう?
ちなみに原作との関係は、主従関係というより、筒井版「時をかける少女」/細田版「時をかける少女」みたく対等な感じ。
■なぜ「時をかけ」は第2の「耳をすま」になりえないのか?
もちろん、違う作品にそれ求めるのが筋違いなのはわかってる。しかしながら、「耳すま」という作品は、俺の人生を影でひっそりと支えてきたと言っても過言ではない。俺としては第2の「耳すま」発掘は、大変に有意義な行為でありまして、なぜ「時をかける少女」は第2の「耳をすませば」なりえないかを探ることもまた、有意義なのであります。
で、後述するように、つれづれと両作品を、要素ごと比較してみると、大きな違いのひとつが分かった。「時かけ」は「耳すま」と比べて人間関係が圧倒的に希薄。これが俺にとって第2の「耳をすま」なりえない真の理由なんじゃないかと思う。両者の比較で気づいたのだが、実は俺は「耳すま」を支配する濃厚な人間関係を非常に求めていたのだ。
■ラストにみられる両者の決定的な違い
「耳をすませば」の有名なラストといえば「結婚しよう」だが、「時をかける少女」では(正確にはラスト付近だが)「未来で、待ってる」「すぐ行く、走って行く」となる。ここに決定的な両者のスタンスの違いを確認できる気がする。
結婚しよう、はどう考えても重い。付き合うにしても、別れるにしても、自然消滅とかはありえない。お互いの気持ちが強すぎて、真剣に付き合い始めたら、さぞかし摩擦が起きる気がする。しかも、イタリア←→日本の長距離恋愛期をはさんでの再開。うわー。でも、まあ、きっとなんだかんだがあって、結婚するのかもしれない。いずれにしても、俺は彼らの間に濃厚な人間関係を感じる。
「時かけ」はどうか。こちらは本当にキレイでスマートに締めくくられる。気持ちを確認しあっただけの、まだ汚れのない状態で2人は別れる。しかも、物語にありがちな「死」という取り返しのきかない、救いのないイベントではない。時を隔てるのだ。この時を隔てるというのが絶妙。生きてるし、時をかけたこともあるし。希望がある。とはいえ、すでに「時をかけた少女」である芳山和子のエピソードをみる限り、再び会えることはなさげな感じでもある。うーん、絶妙。
■一応、まとめ
というわけで、俺にとっての「耳をすませば」は、
に加えて、
- 自分にはなかった、そうであって欲しかった濃厚な人間関係を追体験
という要素があることが分かった。なるほどな。で、「時をかける少女」は、「耳すま」のように濃厚な人間関係を引き受けることなく、後腐れのない形で幸せ感を享受できる作品であると認識した。この辺が、人間関係の経験値が不足しているオタ層でも屈託無く楽しめて、ヒットした要因なんじゃないか。だから、リアル社会とリンクしかねない人間関係をこれでもかと突きつけてくる「耳すま」を観て自殺する、と。ウソ。言ってみただけ。ほんとごめんなさい。
■両作品の登場人物を比較してみる
以下は思考メモ。比較内容が同じベクトルじゃないのもありますが、まあ、メモなんで。
- 主人公キャラ
- 月島雫は人と違う生き方を選択できる「自分がある」女性
- 紺野真琴は「ひっぱっていってくれそうな」女性
付き合うには相当な覚悟が要りそう、というかそもそも夢とかそんなにないボクなんて相手にしてくれなそうな雫に対して、「ハルヒ」に代表される、対人経験がなくても相手がリードしてくれて、奥手なボクでもなんとかなりそうな真琴。
現実にいたら、ちょっと近寄りがたそうな聖司に対して、ハァの顔文字やら、野球大好きっぷりやらそれなりに話題が合いそうな千昭。
- サブ異性
- 雫に迫ってくる杉村
- 3人の関係の中でバランサーとして機能する津田功介
空気とか関係ねえ杉村に対し、クールで優しい功介。「足でかいの気にしてる」というセリフが優しい、とは俺の妻の弁。でも千昭は功介にすら何も言わずいなくなる。
- サブ同性
- 泣きじゃくるほど杉村に惚れる原田夕子
- 千昭に好意を寄せつつも空気読んで真琴に遠慮がちな早川友梨
- 藤谷果穂を筆頭にした3人娘もいたか
自分の感情がコントロールできないほど恋愛してる夕子に対して、友梨は淡い感じ。3人娘にいたっては、あまりにもお約束に過ぎて、アニメ的表現様式に則った記号にしか見えない。あと、妹の紺野美雪も。
- 家族
- 雫の人生と向き合い、介入を試みる(説教、説諭、応援など)
- 真琴に優しいが、人生に介入するような描写は出てこず
作家志望の雫をなんだかんだいいつつも支持する親と、分かりあえなそうながらも心配してくれる姉で構成される雫の家族に対して、それほど重要性が与えられていない真琴の家族。
- 見守る人生の先輩
- 西司朗は導師としての役割
- 芳山和子はあくまで距離を置いた相談役
雫の第2の父的存在とまで言えそうな西老人に対して、タイムリープの先輩というきわめて特殊な同胞であるにもかかわらず、わりと真琴を突き放してる和子。
■両作品の主な「人間関係」を比較してみる
- 主人公キャラの異性キャラへの意識の変遷
- 雫→聖司:やなやつ→尊敬・目標→未来の夫
- 真琴→千昭:対等な男友達→恋愛対象
聖司×雫が最終的に「結婚」について、同意を確認し、約束まで交わすのに比べて、千昭×真琴は最終的な終着点はお互いの行為を確認するところどまり。
- 主人公と異性キャラの立ち位置
- 雫と聖司はそろって、いわゆる「普通の中学生」ではない
- 真琴、千昭、功介はクラスで浮いてなさそう
- 男2人と女1人で、いい意味で浮いてるかもしれないが
雫と聖司はまわりから干渉され得ない壁を作ってそう。作家志望とバイオリン職人志望の中学生て。ちなみに真琴は進路を聞かれ、「ホテル王、石油王(←『今日から俺は!』リスペクト?」)」と答えている。男2人女1人のパーティは「耳すま」にはない要素で、人間関係をあいまいにする作用があると思う。また、真琴、千昭、功介は、千昭に若干の影はあるものの、一応、普通の学生レベルでクラスに馴染んでる気がする。
- 脇役の恋愛模様
- 原田夕子と杉村と雫の原始的三角関係
- 友梨と千昭と功介と真琴の現代型四角関係に果穂も絡む
「時かけ」の男2人に女1人の初期パーティーはモラトリアムの象徴になっている。終盤、真琴に対する千昭の恋愛感情の告白から、モラトリアムを終結する方向に収束する(「ここから」の道路標識でメタ的に表現もされている)。千昭×友梨ルート、功介×果穂ルートともにこの関係を崩すものであり、このへんから、「時かけ」のテーマのひとつにモラトリアムの終結があるもんだと思ったんだけど……。
- 異性キャラの主人公への態度
- 聖司→雫:「結婚しよう」「大好きだ」
- 千昭→真琴:「俺とつきあえば?」「未来で待ってる」
素直クールと見せかけて、とっておきスポットに連れ出して求婚かます聖司に対して、千昭のくどきかたはあくまでライトに「俺とつきあえば?」。しかも功介と果穂が付き合うかもというあたりをダシにして。あまつさえ、千昭×友梨ルートの可能性さえ存在する。
また、ラストでも真琴との別れを選択する。しかも「未来で待ってる」と「待ち」の戦法。聖司なら「未来に来い」か、くるみを砕くかしそう。