中 裕司氏、新会社「プロペ」設立によせて

E3の話題にまぎれてしまった感があるが、どうしてもここに書いておきたいことがある。それは、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」シリーズ、「NiGHTS」、「ファンタシースター・オンライン」など、セガのコンシューマ事業において多くの作品を生み出してきた中 裕司氏についてだ。その彼がセガを退社し、「株式会社プロペ (PROPE)」を設立した。

本来は、個人的な体験として胸に秘めておくべきことだろうが、僕が感じているプロデューサー中 裕司の素晴らしさについて書かれた文章を読んだことは、まだ無い。良い機会であるので、彼の仕事を間近で見た人間として、彼のことを語ってみようと思う。



一言でいうなら、彼は産婆であった。

ゲームを子供に例えるならば、僕らゲーム制作者は母親である。しかし、子供を産み出すことに必死で、時として胎内での子供の成長を見誤り、間違った栄養を与えたり、逆に栄養が足りなかったりして、最悪の場合、間違った判断で殺してしまうことさえある。

彼は、産まれてこようとするゲームの本来の姿を、まだ母親にさえ分かっていないうちから感じ取り、時に優しく助け、時に厳しく叱りながら、適切な出産に導く天才であった。そして、僕は今でも、それこそがプロデューサー職として最も大切なことだと信じている。

立案されたばかりのゲーム企画というものは、本当にか弱い。ゲームの内容以前に政治的経済的なわずかな外因ですぐに死んでしまう。もちろん、「面白くない」という判断がくだればそこで制作費が断たれておしまいだ。

折しも僕が入社した時期は、新聞などでも伝えられたとおり、会社のコンシューマ事業で赤字が続いており、社内では、どんどん企画が闇に消えていった。かなりの額を費やして途中まで製作された作品や、それなりに売り上げを上げたゲームの続編ですらその例を免れなかった。

対照的に、彼の率いる部は、黒字を計上し続け、僕が入社してから企画が消えたことも無かった。そのことについて、他部署の人間、時に内部の人間ですら、彼の政治力がそれを可能にしていると噂していた。

ある意味、それも事実かもしれない。しかし、僕は、たくさんのゲームが彼のもとから産み出され、たくさんのユーザーに親しまれたのは、前述のとおり、彼が本当の意味でのプロデューサーだったからだと思う。



そのことを認識するようになったのは、彼と直接仕事をする機会が増えるようになってからだ。

入社から数年して、気の知れた同期のディレクターと僕、そして数人のスタッフだけの小さなプロジェクトが立ち上がった。それは、他の続編や大作と比べればほんの弱小プロジェクトで、激動している社内の状況からして、いつ消えてもおかしくないものであった。

しかしながら、この頃までにそれなりに場数も踏み、企画の面白さと実現性にも自信も持っていた僕らは、見栄えのよい、内容的にも破綻のない企画書を作成して、最終的なGOサインをもらうべく、彼にプレゼンテーションをした。

彼は、少し唸ると、ウリの一つであるストーリーモードについて「わかるけど、違う」と言った。

「このゲームは○○だ。だから、お客さんがお店で買って、電源を入れて、スタートボタンを押して××が始まったら、絶対「え?」ってなるよ。だからこれは、絶対違う」

これが、仕様の大幅変更を意味する、僕らが恐怖して呼ぶところの「ちゃぶ台返し」である。

「あと、○○できるモードが欲しい。絶対欲しい」

正直、唖然となった。これは、大きな仕様追加を意味する、僕らが失禁するほど怯えて呼ぶところの「爆弾」である。

それなりに自信のあった企画に対して、「ちゃぶ台返し」と「爆弾」のコンボを浴びた僕らは落ち込んだ。

ここで彼の主張を聞き入れた場合、すでにできているゲームシステムとプロットを覆すことになる上に、ボリュームも増える。当然、予定していた期間では終わらなくなる。ゲリラ的に立ち上げた少人数、短期間が命のプロジェクトだったので、ここで企画内容を変えられるのは、どうしても避けたかった。

しかしながら、考えれば考えるほど、彼の主張はもっともだった。僕らは、製作期間を短くすませるために、コストの少ないゲームシステムばかりに気を取られていた。ゲームデザインとしては、コンセプトに沿ってスマートで破綻がない。しかし、完成したゲームの印象を想像すると、指摘された部分について、ユーザーが求めるものとは違う方向性を持っていることが明白だった。

僕らは頭をひねって彼の提案をゲームデザインに落とし込んだ。新しいモードも追加した。できあがったゲームの全体像は、なぜ最初からこうじゃなかったのだろう?というくらい自然なものだった。得てして良い仕様とは、100年前からそうであったように自然なものだ。

僕が思うに、彼の持つゲームに対する天性の勘は、この「本来そうであるべき姿」を見抜くことにあったと思う。彼が開発中のゲームを見るとき、その目は、どんなゲームが産まれてこようとしているのかを、じっと見定めているような気がする。そして、ずれを修正し、足りない部分を補完させるのだ*1

というわけで、修正された案を聞いた彼は、「そうだよなー」と嬉しそうに笑った。もっとも、納期については、僕が週に100時間働かないと間に合わない計算になったのだが。

あれからさらに数本のマスターアップを経た今となって分かることだが、あのまま制作が進んでいたら、作品としての緩さが、後に大きな弱点として致命的な影響を及ぼしていたことは間違いないと思う。彼は、そこを見抜いて、立案した僕らにすらわかっていなかったゲームの最終的な姿形をはっきりと知らしめてくれた。

あの、未熟なゲームを完成に導いたのは、間違いなく彼だ。その後も、僕は、様々なプロジェクトで同じような瞬間を目撃してきた。

彼がリーダーを務めた部の成績が良かったのは、彼の政治力だけでは断じてないと思う。本来死ぬ運命にあったゲームを救ったから。弱いゲームを強く育てたから。産もうと苦しむ僕らを助けてくれたから。その結果として、利益があっただけだと思う。



その後、彼は手腕を認められ、プレスリリースにもあるとおり、最終的にはR&D クリエイティブオフィサーという立場で、さらに広くさらに多くの作品をプロデュースすることになった。しかし、多くのゲームを見る立場上、育てるだけでなく、コストに見合わないと判断したゲームは容赦なく切り捨てなければならなくなった。本来なら、救うことができたかもしれないゲームも、立場上、やむを得ず。

セガで過ごした最後の時期は、プロデューサーとして、予算と期間内でゲームを育てたい彼と、役員として、コストに見合わない作品を切り捨てなければならない彼がせめぎあい、さぞ辛かったであろうと察する。産婆が赤ん坊を殺さねばならないほど、辛いことがあろうか?



しかし、今、彼はセガを退社し、僕が入社した頃のような小さなソフトハウスのリーダーに戻った。退社の話を彼の口から聞かされた時、「何が一番やりたいですか?」という僕の問いに、ちょっと照れたように「え、プログラム……かなあ」と答えた彼の表情が忘れられない。てっきり「アクションゲーム」といった答えが返ってくると予想していた僕は、彼の楽しげな表情を見て、彼の本来の姿を思い出した。

プログラマの席で出力されている綺麗で高速な表現を見て、「え、これ、どうやってんの?」と興味津々にソースを見せてもらう彼。長いロードにイライラして、「おっそいなあ、これ。俺がコード書いてやろうかー」と冗談交じりにプログラマを叱る彼(いや、冗談じゃなかったのかも知れないけど)。

彼はいつだって、役員である前に、プロデューサーである前に、ゲームを作るのが好きな一人のプログラマーだった。たまたま、仕事ができるから、みんなが彼を頼ってしまっただけで。

もう彼の指示を待つ数十本のゲームはない。意思に反して打ち切りを宣告しなければいけないゲームもない。彼が好きなゲームを、大事に大事に、とことんまで面白くして、ひょっとしたら自分でコーディングをして、完成させることができる。今、僕は、メガドライブで「ソニック」を、セガサターンで「NiGHTS」を作った彼が、次世代機でどんな面白いゲームを僕たちに見せてくれるのか、本当に本当に楽しみで仕方がない。


*1:もっとも、だから彼の訪問は、どのプロジェクトにも、デススター並みに恐れられるのだけれども。ついでに誤解を与えそうなので、一応書くが、実際に砂を噛み、血反吐を出しながら制作するのは、間違いなく僕らであるし、前述のプロジェクトもディレクターの切り盛りの困難は想像を絶するものであった。ただ、その努力の方向が間違っていたらどうなっていただろうか、ということを想像してもらいたい。