ゲーム開発は、往きて過ぎて暮れて(改訂版)

というわけで死ぬほど書き直しました。

2005年が暮れて過ぎようとしておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、年末らしく今年を振り返ろうと思います。今年における僕個人の重大イベントは、アメリカ転勤/洗礼/プロジェクト終了の大きく3つですが、今回はプロジェクト終了をですます調で振り返ります。振り返ると言いつつ、ゲーム開発の話なので興味のない方は流してください。

僕は今回でゲームデザイナーとして5本のゲームのマスターアップに関わったことになりますが、今回ほど、「突出したグラフィックを見せること」に力を注がなければならないと感じたことはありませんでした。というのも、年々、求められるクオリティとハードの能力との乖離が大きくなっているからです。ここで言う求められるクオリティとは、すなわちエフェクトの派手さや同時に表示されるオブジェクトの量であったり、インパクトある映像だったりで、ハードの能力とは、それを実際に実現できる性能です。早い話が、求められ必要とされる見た目のクオリティが、現行の、それどこか次世代機ハードでも、おいそれと実現できなくなってきているのです。

世間で認識されるCGの進歩に比べ、ハードの性能は基本的に発売当初から変わりません。どんなに素晴らしく見えるグラフィックも、数年前のハード制約の中で表現されているわけです。さらに平均1年半、長いと2年半といわれる開発期間中に、さらに世間から求められる見た目のクオリティは上がっていきます。特にアメリカではその傾向が強いせいかもしれませんが、今回のプロジェクトで強く感じたのは、今や、ソフトには多大なる努力と犠牲を払ってでもビジュアル的なインパクトを提供せねばならないということでした。社内でも、内部向けプレゼンで他のソフトと並んだ時に見劣りするグラフィックにはすかさず突っ込みが入ります。E3などのゲームショウでも面白いかどうかよりも、見た目がいいかどうかで出展ステージが決められます。あまり詳しく書けませんがマーケティング結果からも、ざっくり言えば購買者の購入動機の大きな部分をグラフィックが占めると出ています。

ここでいう「グラフィックが重要」というワードには2つの要素があります。1つは、このCGが溢れる世の中で、商品に求めれる一定以上の美しさが必ず求められることと、もう1つは最初に触れた、グラフィックが商品として魅力あるものか、突出しているかどうかということです。

一定以上の見た目の美しさは現行の技術と努力でなんとかなります。問題は、商品として埋もれずに突出したグラフィックを実現することです。それは必ずしも実写に近づくことが答えではありません。アメコミ調のグラフィックを追求した「ビューティフル・ジョー」シリーズは日米でヒットしましたし、「どうぶつの森」シリーズも、すでに旧ハードでアメリカで受け入れられていました。また、コンセプトから導きだされるインパクトある映像も一つの答えです。例としては、アメリカでも通にはかなり受けが良い「塊魂」シリーズや、海外でも大きな賞を受けた「ICO」「ワンダと巨像」などです。

そこで僕ら開発者に必要なのは、ソフトを買う人が、ゲームのどこにグラフィックのクオリティを求めるだろうかという予測です。あの超リアル志向で、実写と見紛う車のグラフィックで知られる「グラン・ツーリスモ」シリーズも数作目までは観客が1ポリゴン、つまり2Dで表現されていましたし、他にも「ウイニング・イレブン」シリーズも、サッカー中継さながらのリアルな選手のモーションと対照的に観客はやはり1ポリゴンでした。どちらも100万本を超える売り上げを達成するソフトであるにも関わらず、ユーザーが重要視しない部分では、悪く言えば手を抜いるのです。逆に言えば、重要ではないところを手抜きしてでも、注力すべきポイントに特化して表現を極めているともいえます。

3Dゲームファンのための「ワンダと巨像」グラフィックス講座

http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20051207/3dwa.htm

このインタビューを読むと、かつて次世代機と呼ばれたハードも、とことんまで研究して工夫しないと、映画やCMなどで目にするCGと比べて「素晴らしい」と思わせるグラフィックを表現できないんだと思い知らされます。しかも、「巨像と一対一の対決」という他とは一線を画すコンセプトを掲げていてもなお、突出するため、グラフィックにここまでの努力を捧げているのです。

すでに次世代機の先駆けとしてXbox360が発売され、シャープで美麗なグラフィックが堪能できていますが、遊べるゲームをよく見ると、複数の点光源の移動は敵が殆ど出てこないシーンに限られていたり、物理演算も同じく処理の軽そうなところでピンポイントで使われていたりと、優雅に水面を滑る白鳥が、実はその足を一生懸命動かしているような、そんな事情が垣間見えます。次世代機はその圧倒的な処理能力によって、物理計算に基づいたリアルな光源処理や挙動を可能にしましたが、未だなお、その力はリアルな光や物理運動のシミュレートを存分に使うには全然足りていないのです。

すべてが説明できるわけではありませんが、その理由として、表現の複雑化による処理の負担が増えたことがあげられると思います。次世代機に特徴的な表現の多くは基本的に物理シミュレーションに基づいています。細かい説明は省きますが、例えば、太陽などの光源が移動して、つられて影が伸びたり移動したりや、平らに張られたテクスチャの凹凸を表現する技法などは、これまで以上に複雑な処理を通して表現されます。これがゲームにどういった影響はもたらすかというと、見た目の良さと引き換えに、処理速度を奪います。まともに使っていては、おそらく理想とされる1int(60fps)では動かないでしょう。実際、聞いている話では2int(30fps)のゲームが多いようです。というか、前述したようにがんばって高速化してなんとか動かしているようです。

このように、次世代機は開発において決して夢のマシンではありません。しかし、ぶっちぎりのCGの進歩を期待するお客さんに答えるためにも、今後さらに必要とされるのは、世の中全てをリアルに表現することではなく、前述のワンダのように、個性的なコンセプトに対して、それが最大限に生きる表現を追求することだと思います。

正直、僕はこれまで「グラフィックは二の次だ。ゲームの本質は面白いかどうかだ。」と思って来ました。もちろん、会社という組織で「商品」を作る上では、ビジュアルも大事だという最低限の認識はありましたし、見た目に対する作業工程もそれなりに確保してきました。とはいうものの、「見た目二の次」という認識であったので、見た目はだいたいアーティストまかせで、それどころか、アーティストからプログラマの負担が大きい表現を要求されるとやんわり退けてきたりしました。

そして今回も、そんな調子で望んでしまい、遊びだけを考えることに注力してしまいました。僕が担当するステージでは、アーティストやプログラマの方々がそんな認識の甘さをフォローしてくださり、提案した遊びの本質を維持しつつ、さまざまに工夫してクオリティの高いグラフィックが実現されました。制作進行も務める僕としては、最初から遊びとビジュアルのインパクトが結びついたレベルデザインをしていれば、作業効率もクオリティもさらに高められたと痛恨の極みです。

これを大きな反省点として、次のプロジェクトでは、ゲームデザインレベルデザインそのものがハッタリの効く(=費用対効果が高く、実現可能な)ビジュアルを生み出すような提案を行いたいと思いつつ書いたこの文章を来年の初心表明というか、そういう感じにさせて頂きます。今年もありがとうございました。来年もよろしくお願い致します。


ちなみに、全然関係ないけど僕にとっての2005年のベストPV

OASIS "Let there be love"(アマゾン)

http://www.video-c.co.uk/artistfeatures/oasis/watch.asp

この前ノーリアクションだったので、Amazonにリンクとかいってアマゾン川写真集とか仮面ライダーアマゾンの画像にリンクしたりしないなんていわないよ絶対。